そんなことより僕と踊りませんか?

例えば良い物語があってそれを伝える相手がいる。それだけで人生は捨てたもんじゃない(by『海の上のピアニスト』)

【午前十時の映画祭】真昼の決闘(1952年)。

格好悪くてもいいじゃない。だってにんげんだもの(byみつを)。

 

アカデミー主演男優賞、ドラマ・コメディ音楽賞、歌曲賞、編集賞をゲットした作品。ああ、名作は色あせない。さすが巨匠ジンネマン監督だね!

 

原題:High Noon(正午)よりも邦題のほうが格好いいよなぁ。

 

爆笑太田は嫌いだが彼の言う「(グレース・ケリーは)笑っちゃうほど奇麗!」というのは納得。メチャメチャ奇麗す。後にモナコ王妃になるとは美人って得よね。

 

ま、そんなこたぁどーでもいいが。話を『真昼の決闘』に戻します(最初から話してないかw)。時計を小道具にしてリアルタイムで観客を巻き込む演出は流石。おまけにTOHOシネマズ新宿では劇中と同じように上映を10時半~正午にしたという粋な計らい!そっちにすればよかったかなぁ。

 

この作品は西部劇なんだけど王道とは違うのでアメリカでも賛否両論分かれたとか。確かに『真昼の決闘』は正義感の強い保安官が主役だけどヒーローではないもの(むしろ彼を嫌いな人もいる始末)。でも保安官のおかげで治安は成り立っているわけで。

 

王道なのに新鮮!? 時代劇と西部劇の意外な共通点|シネマトゥデイ

活劇としてはもちろん、ドラマとして観ても楽しめる『駅馬車』(1939年版)や『羅生門』といった名作もある。このような、ライバルとの友情や人間模様、恋愛といったエピソードを絡め、男の生きざまを描いた秀逸なストーリーの作品を好むファンも多い。そういった時代劇や西部劇であっても、やはり登場人物の魅力的なキャラクター、またはアクションが欠かせない。

この『真昼の決闘』ではアクションよりもドラマ色の方が強い。むしろ濃ゆい。保安官ケイン(ゲイリー・クーパー)はお礼参りにやってくる悪党どもを退治する助っ人集めに右往左往する話なんですから。王道とは違いますよね。

 

ちょっと『羅生門』で思い出したんだけど人を斬るシーンはちょっと情けなくてオタオタするんですよ。全然格好良くないんですよ。むしろこっちのほうがリアルっぽいぞ・・と(だって命がけなんですからね。ああ、でっど・おあ・あらいぶ)。

 

それと同じような感じで『真昼の決闘』では保安官が普通の男なんですよ。全然ヒーローじゃないの。仲間を集めまわっているけど皆がみんな難癖付けて避けたがる。当然ながら保安官もイライラ。おまけに悪党どもがやってくる時間が迫ってるわけだし。

 

「保安官のおかげで町は平和になった」なんて言っときながら悪党どもがお礼参りに来るなんてわかったら「悪党は保安官目当てなんだから町を出ればいい」なんて手のひら返しも出る始末。そらケイン怒るわな。やるせない気分。

 

ジンネマンは「最初にこの映画の脚本を読んだ時に、これは傑作以外の何物でもない」と思ったと自伝で語っている。製作者のスタンリー・クレイマーは「誰も守ろうとするガッツが無かったので滅んでいった町についての話だ」と語り、ジンネマンは「これは良心に従って決定を下さなければならない男の話だ」と語った。フォアマンはこれをマッカーシー時代の彼自身の政治的経験の例え話だと見ていた。しかしジンネマン自身は「深い意味がある」と感じ、「普通の西部劇神話ではない」「これはタイムリーでもあるが、時間を超越した今日の生活に直接結びついている何かがある」「これはどこでも、いつでも起こり得る話である」と述べている

真昼の決闘 - Wikipedia

みんな、自分の身が可愛いんだよ。いつの時代も一緒(心理だよな)。

 

この『真昼の決闘』は赤狩りの時代(簡単に言えばソ連アメリカ冷戦時代に「おまえはソ連の犬だ」とレッテル貼って社会的抹殺したハリウッドの黒歴史。こわいですね)に出来た作品ですが当のジンネマン監督は「そんな(赤狩りを皮肉った)意図はない」のだそうで。ま、内容が内容だけに被って見える人もいるんだろうな。

 

むしろ脚本家のカール・フォアマンのほうで彼はこの作品の撮影中に赤狩りの対象になり映画完成後、英国に亡命したそうです。

 

あんたは悪くない。時代が悪かったんや!

 

 

それよりもだ。悪党が「今日の正午、お礼参りに行くからよろしくね」と電報打ったのかなぁ?ちなみにケインと揉めている保安官助手を演じているロイド・ブリッジスはボー・ブリッジスジェフ・ブリッジスのお父ちゃんです。